「国家の読み解き方」(勁草書房)
(2007年2月22日発売)
時の首相が「憲法改正」と連呼しているというのに、憲法学を中心としたアカデミズムは堅く口を閉ざしたままです。1970年代初頭まではあれほどまでに饒舌であったはずの憲法学者たちは、自らの主戦場であるはずの憲法が今まさに改正されるかもしれないという時に、なぜ、黙して語ろうとしないのでしょうか。───この本は、憲法学を学び、あるいはこれから学ぼうとする読者であれば、必ず一度は抱いたであろう、そうした疑問に対する答えを探る中で、日本におけるあるべき憲法と望ましい憲法学の姿を探ろうとする試みです。
結論を先回りして言うならば、戦後日本憲法学が今の憲法改正論議という「憲法的状況」に全く対応できないのは、それが敗戦という実存的な状況の中で「国家からの自由」だけを信条に創りあげられてきたものだからです。つまり、「もう戦争には行きたくない、死にたくない。だから、国家からは極力自由でありたい」という発想がそこにあります。
しかし、今や米国からの要求に基づく「構造改革」の時代です。GHQによって創り出した戦後日本の構造は、米国自身にとっても不都合となりました。したがって、「対日年次改革要望書」といった手段をつかってまでしても、「構造改革」を求めるにいたったわけです。
そして、その際のスローガンは「官から民へ」、すなわち、狭い意味での「公」にあたる統治機構としての国家の徹底した破壊です。自らの「実存」をかけて、かねてより「国家からの自由」だけを熱心に説いてきた憲法学は、国家を破壊することを善とする構造改革派と、偶然にも軌を一にすることとなります。
ところが、憲法改正とは、「国家への自由」の世界における出来事です。つまり、私たち一人ひとりの日本人が国家へと積極的に向かっていかなければ絶対に達成できないものなのです。そうであるために、これまで一心に「国家からの自由」ばかりを説いてきた戦後日本憲法学は完全に破綻しました。
この本は、いわば戦後日本憲法学のための「挽歌」です。そしてそれと共に、「公を壊す」という意味での構造改革ばかりを説いてきた政治家たちが、一転して憲法改正という創造的行為を扇動しているという矛盾をあぶりだす試みでもあります。いわば、「反構造改革学派による憲法学テキスト」です。
といっても、何も難しいことではありません。この本に書いてあるメッセージはただ一つ、仕掛けられたものだとはいえ、「憲法改正」を機会に、私たち日本人も大いに「公としての国家」を取り戻そうではないかということです。その意味で、国家を読み解き、「国家への自由」を正々堂々と語るということ。───誰もこれまで語らなかった、新しい日本人のための新しい憲法読本の完成です。
(2007年2月 原田武夫記)


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